「道徳教育の研究」の授業準備のため、デュルケムの『道徳教育論』を読む。全般的によい翻訳だと思うが、引っかかるところもある。
「規律の精神こそはあらゆる道徳性の第一義的な基本心性なのである。だが、このような結論は、広範な人間感情と衝突をきたすことになる。道徳の規律は、それ自身善なるものとして示され、それはそれ自身のうちに、またそれ自身のために、当然一つの価値を持つものと考えられている。われわれが規律に従わねならないのは、それが命令する行為や、それらの行為の効力のゆえではなくして、規律がわれわれに命令するというまさにそのことのためなのである。そこで人々は、むしろそれを多分に避けがたく常に苦痛をともなうところの一種の枷と見る。」(講談社学術文庫90頁。太字はym)
これだと、「広範な人間感情」の中身がどうもよくわからない。それで原文を見てみた。「そこで」と訳されている「or」を「ところが」と取ればよくわかる。
試訳:「だがこのような結論は、人間的であるがゆえにそれだけ広く共有された感情と衝突することになる。われわれは道徳的規律をある種のそれ自体における善として示してきた。それはたしかに、それ自身の内に、それ自身のために価値を持つように思われる。というのは規律は、それが命ずる行為やその行為の効力との関係においてではなく、規律が命ずるがゆえに遵守されるものだからである。ところが、人々はむしろ規律を、必然的かもしれないが常に苦痛をともなう一種の枷と見なす傾向がある。」
「ところが」の前は「このような結論」の繰り返し、「ところが」の後が「広範な人間感情」の説明。「むしろplutôt」の意味もよくわかる。
こういう、議論の筋道を追う力は哲学の勉強でずいぶん鍛えられたように思う。哲学の勉強も役に立つ。もっとも、哲学するのは何かの役に立つからではないだろうけど。